宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 ①-233  9.11同時テロ事件 家康暗殺は佐賀藩 明治時代もアメリカ・ロシアはグル

 家康は、佐賀藩に喧嘩を売るのを慎んでいた、とされる。どうにもこうにもやられてしまいそうで、避けていたのだ。しかも、天皇家と親しくしているようだ。親しいといっても、今のI知事が天皇家に媚びつつ、一方で悪に手を染めさせようとしているのと同じである。
 家康を暗殺したのは佐賀藩に違いない。
 
 日比谷の土地を使用していた華族に暴力を加えてしまったのも佐賀藩のI知事である。
 これは、徳川家に関係があった者への復讐、自分になついている慶喜に何かを言ってきそうな者に対するI知事の焦燥(→慶喜がニセモノなことがバレたらどうしよう)であると思われる。
 実は警察も家康や徳川家を暗殺したりしていたのがI知事であることをうすうす勘づいていたので、I知事に逆らえる警察官もいなかったのだ。
 
  
 土地を使用した者に対する日本の行政や国民の態度は、I知事に逆らうことが出来ない態度と同じであると思われる。I知事で佐賀藩は、ロシアのスターリン一族である。


 土地が三菱地所に売却された1968年の郵政大臣と郵政官僚

 小林郵政相→UHF帯で大量の放送免許を与えた
 郵政官僚→浅野氏あるいは鹿内氏(どちらもFテレビ元社長)
 NHK会長→前田氏


 徳川慶喜の父、一橋徳川は養子・実ははじめから徳川家だったわけではない

 徳川慶喜の父・徳川斉昭は、一橋治紀の子だった。10代将軍徳川家治の養子家基が急死したため、同じ水戸藩の家斉の父と田沼意次の裏工作で、男子がいなかった家治の養子に家斉がなった。そして、その5年後に将軍は急死し、翌年、家斉が徳川家の将軍となった。

 10代将軍に男子がないかったために、家斉という養子を取り(それも裏工作)、さかのぼって家斉の父親の治済が、一橋「徳川」と呼ばれている。
 家斉が裏工作で10代将軍の養子にならなかったら、家斉の父の治済は、一橋徳川といわれることはなかったのだ。息子が徳川家の養子にならなかったら、一橋徳川は、水戸藩一橋家だった。

 徳川慶喜は、そのようにして徳川家に自らなりたくて養子に入った水戸藩家斉の甥ぐらいにあたる。妻は、皇族の側室の子だった。
 徳川慶喜が、小石川の一橋徳川家上屋敷で生まれた、というのは、その時にしてみれば、一橋徳川ではなく、一橋斉昭という人物の息子が生まれた、というのが本当のところのようである。
 それを、裏工作で徳川家将軍の養子になり、徳川将軍を受け継いだからといって、さもはじめから一橋家が徳川家の親戚であるかのような言い方をする記述もある。
 一橋といえば、今の一ツ橋大学のある場所あたりだが、一ツ橋大学の向かいには、K立学園があり、仲が良さそうに建っている。
 一ツ橋大学はI知事の出身校で、K立学園はH総務相の家が経営する学校である。
 徳川慶喜は、幼少の頃よくこのあたりに通ったといわれる。
 実家があったと思われるが、近くには、外国に関する学校なども出来、インターナショナルだったようである。
 
 斉昭の息子の慶喜の妻は、一条家の養女である。
 一条家では、娘が慶喜の妻になることが決まっていたが、病死したため一条家は養女を慶喜の妻にしたようだ。
 もともと慶喜の妻となった一条家の養女は、菊亭家という家の娘で、菊亭家は、外国人が作った日本の家(黒船一族?)、という感じもする。
 徳川慶喜の時代から、日本人の将軍というよりも、外国色豊かな外国人に囲まれた将軍が何かと話題になっていたようである。
 
 一橋徳川は、本当の徳川家ではなくてウソっぽい、などといわれたりもしたが、それはある程度本当のことである。
 だからこそ開国や明治維新が成功し、徳川家の子孫たちより、外国系の名前だけを受け継いだ徳川家がもてはやされるようになったのである。
 
 徳川慶喜諜報機関
 徳川慶喜の父・斉昭は、兄弟が将軍をしていた徳川家を名乗らず、家督を継ぎ水戸藩の藩主となった。しかし、斉昭の息子の慶喜が徳川を名乗り、水戸徳川と呼ばれた。 
 水戸藩加賀藩(前田家)に直接の親戚関係がない場合、山口組(前田家)の出身地が茨城県であるといわれている理由がわからない。そうすると、慶喜の父は加賀藩の前田家であると思われる。つまり、慶喜の父といわれる斉昭は、実父でなく育ての父親である。
  
 前田家(暴力団山口組)と天皇家の間に子供が生まれ、その子が叔父が養子に入り継いだ名前の徳川家を名乗った。
 家斉の妻は一条家で、慶喜と同じだが、慶喜の妻は本当の一条家ではなく養女で菊亭家という家の娘である。