宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 ⑨-4    よど号事件のつづき

 よど号事件とは

 正田美智子さんと皇太子の間に生まれたのは、Hの宮、Aの宮、Nの宮だが、Hの宮は1969年頃に殺害された。
 1959年、正田美智さんは、皇太子との結婚を実は自分は天皇の妻になる自信がない、と辞退していたが、すでに、皇太子と離れられなくなっていたために、替え玉をおくことで、嫁入りしていた。
 替え玉は、E頭Y美子さんという女性だが、正田美智子さんとは多少顔見知りだった。
 しかし、1969年に息子のHの宮が殺害された(E頭Y美子は皇后の座を狙っていたために、一族の者が殺害した)。

 1968年か1969年頃に、正田美智子さんの替え玉のE頭Y美子さんと皇太子の間に女の子が生まれた。
 この子供が1歳か2歳の時、北朝鮮の金総書記に、女の子の顔を見せに行く計画があがった(よど号事件)。
 明仁皇太子は、北朝鮮金日成総書記と同一人物で、E頭Y美子さんは、イギリス皇室と関係のある女性だった(エリザベス女王と敵対していたメアリー→しかし、エリザベス女王とメアリーの母親は姉妹)。そのために、女の子は北とイギリスの娘と呼ばれていた。
 正田美智子さんは、Hの宮が殺害されたことで、気が動転していた頃、E頭さんと皇太子の間の女の子を北朝鮮の金総書記に見せに行く、ということで、皇太子にフラれた、と思い、Aの宮とNの宮を連れて、よど号に乗り、韓国か北朝鮮に行った後、大阪へ向かい、父親が宮司をしている住之江区の神社に預けた。しかし、二人の子供のうち、Aの宮は、1974年のだんじり祭りで殺害された。皇太子(現在の天皇)とだんじり祭りが関係がある、といわれているのはそのためである。
 殺害したのは、A生太郎で、お笑いタレントのM本人志と同一人物である。麻生は、正田美智子さんの息子(Aの宮)を殺害していたのが自分であるのに、Aの宮の父親だと主張し、正田美智子さんの相談に乗っていたりしていた。しかし、昭和天皇に嫌われている。
 Aの宮を殺害された正田美智子さんは、この後、グリコの社長夫人となったが、1984年のグリコ・森永事件の時にまた居所を変えた。
 ちなみに森永の令嬢というのが、E頭Y美子である。


 一方、北とイギリスの女の子は、1977年頃に、E頭Y美子と麻原彰晃と一緒に住んでいたが、田宮高麿に拉致され殺害され、マンホールに遺棄された。その後、女の子の替え玉をしていたのが、大内早苗(菊池直子)である。
 E頭Y美子は赤軍派の森順子で、大内早苗は永田洋子と同一人物である。
 田宮高麿は、Hの宮の替え玉をしている人物で、次期天皇の座を狙っている人物である。
 
 Nの宮は、皇居に戻り、その後皇居で暮らしていたが、2007年に、正田美智子さんや正田一族が殺害されていたこと、替え玉の女性が天皇の妻をしていることなどを悟り、自殺したといわれている。

 よど号事件とは、正田美智子さんとE頭Y美子さんが入れ替わるために計画された事件で、この時、正田美智子さんの世話をしていた役人なども、皇居を離れたものと考えられる。
 赤軍派と皇族が入れ替わったと考えられる。
 
 皇后と皇后一族の数奇な運命

 正田美智子さんは、1994年にオウム真理教が起こした松本サリン事件の時、被害に遭った河野澄子さんと同一人物であると思われる。
 河野さんはしばらく生きていたが、長野県や東北の障害者施設に入所し、
杉沢村で当時の妃候補だった女性たちが天皇により銃殺された後、その場から逃げ出し、秋田県能代の公共施設のトイレで発見され、殺害された後、八甲田山の後藤伍長の銅像がある銅像茶屋のトイレに遺棄された。
 この間か後に、父親の正田英三郎さんが船上でオウム真理教の信者に殺害された(1997年)。