宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 29-692    仮谷さん拉致事件のつづき

 屋形船で殺されたのは会社社長?

 会社社長は、自宅の風呂場で死んでいた、という情報が浮上した。
 1995年4月25日午後7時頃に港区芝浦の屋形船乗船場に呼び出されたのは、会社社長の方かも知れない。
 この時、殺された社長は「いけす」で移動しているらしい。風呂場で殺されたことにするには、死後「いけす」で運び水と遺体をなじませておく必要があり、そのために「いけす」を使ったのだ。
 佐賀一丁目は、隅田川の脇にある町で、隅田川の遊歩道から階段を上ればそこがもう佐賀一丁目である。
 いけすで運んだのは、屋形船の料理を運ぶフリをしたのか、業者のフリをして階段を上る必要があったのだろう。
 また、階段を上がったすぐ隣には、深川警察の交番がある。

 会社社長は、文京区のS社で物流課で働いていた前田建次という警視総監と同一人物で、当時、事件の管轄警察署の深川警察署の署長だったという説も出てきている。
 警察から遺族が遺体を引き取った後、遺体を福島第一原発所に埋めたのではないたろうか。

 正田英三郎の場合は、次のようである。

 正田英三郎は、オウムにつきまとわれていた(妻が以前に松本知子に殺害されすりかわっていた)。ある時、御茶ノ水にある難治疾患研究所に呼び出された英三郎氏は、研究所に潜んでいた高橋克也に頭を殴られ気絶し、一つ先の駅の東大病院に運ばれた。
 病室で気がつくと医師がいて「あなたはガンです」と宣告された。
 この医師は、林郁夫で菊池直子(妓郷蟻析此砲世蹐Α
 気落ちしたまま近くの別宅に帰ると愛人が待っていた。愛人(松本知子?)に風呂に入るようすすめられて風呂に入ったら浴槽にサリンが入っていて、英三郎氏はサリン中毒により死亡した。
 この後、東北に向かい、風の松原に寄った後(中国人が所有しているのでそのことを中国に伝えるため)、少し離れた温泉施設で解体され、遺体を千葉県の手賀沼印旛沼に遺棄された。
 沼の周辺の湿地帯に穴を掘り、そこに遺体が埋められたのではないだろうか。
 この英三郎氏の殺害を、日本の官僚たちは皇太子妃M子の死であると錯覚していたのは、皇太子妃M子が英三郎氏の妻になりすましていたからであり、つまり、殺害者だったためだ。
 何故印旛沼かというと、赤軍派の吉野雅邦が1970年代に逮捕された時、印旛沼で仲間の遺体を穴を掘って埋めた、と供述していたことがあるからである。
 オウムは赤軍派の現代版であり、同じ場所で同じ方法で埋めるという可能性があるからだ。
 どちらも衣服がない状態の風呂場での遺体遺棄や殺人である。1970年代の印旛沼の遺体遺棄の時も、衣服を剥ぎ取られた状態で被害者は埋まっていたという。

 この殺人は、当初、サリン事件の起きた直後だと考えられていたので、1995年3月20日~21日未明に起きたのだろう。
 会社社長が殺される1ヶ月前のことだったのかも知れない。
 会社社長の事件とは同日ではなかったが、近い日に二人の正田家の重鎮が殺害されていたのだ。

 正田氏は村井秀夫だったのか

 正田氏は何故、難治疾患研究所に行ったのだろう。正田氏は、医師だったのだろうか。
 御茶ノ水の難治疾患研究所は、ガンの研究をしている研究所でもあり、ガン研究といえば常陸宮である。
 常陸宮の主治医だったのだろうか。
 村井秀夫というオウム信者がいたが、テレビなどに出演していた村井は、上裕と同一人物者である。しかし、本物が別にいて、それが正田英三郎だったのではないだろうか。
 村井は実はこの時に殺されていたのだが、それを別の日に村井が死んだことにしてカタをつけたのではないだろうか。
 村井は、1995年4月24日(会社社長銃殺事件の前日)に青山のサティアン前で死んでいる。
 正田英三郎と村井が同一人物だとすると、正田氏が死んだのは1995年4月24日で、その後、千葉県の沼に遺棄されたことになる。

 本物の仮谷清志とは

 本物の仮谷清志とは誰なのだろう。
 仮谷清志のイメージは、身長が高くなく、ヒゲをはやした初老の男性、という感じがする。
 イメージにピッタリくるのは、会社社長の正田建次郎氏の方である。本物の仮谷清志とはこの人物のことではないだろうか。
 建次郎氏のY社は、京橋で創立された会社だが、京橋に公証人役場があり、通りがかる時に気になることがある。
 この人物は、大田区清掃工場で工場長をしていたことがあるようだ。