山口組の会長抗争
この頃、山口組の会長の跡目争いが起きていた。
1981年に田岡一雄が死んだ後、次の会長になったのは竹中正久だった。竹中は、中国と関係がある(山口組は、1981年~1984年まで会長がいなかったらしい)。
しかし、竹中会長の若頭を決める際に、田岡の妻の田岡文子が、山本広を若頭にするという裁定をした。
ところが、竹中と山本は仲がよくなく、山本の方が竹中を上回っていたので、田岡文子は山本が反発するに違いない、と思ってわざと裁定していたのだ。
結果、山本広の派閥の山広派→一和会が、竹中と側近を大阪吹田市のマンションで待ち伏せして殺したことになっている。
しかし、抗争の舞台になった大阪吹田市のマンション、というのが、江崎・グリコ森永事件の際に、犯人グループが従業員を呼び出して従業員を殺していた場所のことだったのではないかと思われる。
田岡文子は、竹中が握る中国が嫌いだったので、香港返還での中英のしわよせを、日本に押し付けることを考え、それには竹中を殺す必要がある、と考え、わざと山本広を若頭に裁定したのだ。
山本広というのは、A倍昭恵である。
田岡文子は、A倍晋三だ。田岡文子(A倍晋三)と山本広(A倍昭恵)はグルだ。
事件のさなかに、A倍晋三がA倍昭恵の元を訪れていたのは、実は、仲間の暴力団にそれを示す必要があり(山本広は自分とグルだ、ということを)、テレビカメラを使っていたということも考えられる。そのことによって暴力団の結束が違ってくる。
この事件で、田岡一雄は、キツネ目の男だが、妻の田岡文子は、キツネ目の女だろう。
もっとも、田岡一雄にしてみれば、1981年に殺されていたので、首謀者とは考えにくい。
田岡を裏で操っていた人物が、事件の首謀者だろう。
しかし、結果的に得をしたのは渡辺芳則であり、渡辺芳則が依然として首謀者かそれに近い可能性は高い。
田岡文子
田岡一雄が1981年に死んだ後、1984年までの3年間、山口組には会長がいなかったらしい。
この間、妻の文子が、誰にしようかと裁定していたが、そういう人たちが死んでいったらしい。
田岡文子は、この間の事実上の権力者だったのではないだろうか。
跡目が決まるまであいつにしようこいつにしよう、とやっている間にそういう人たちがしくじり出していたが、その隙に山口組を掌握していたのではないだろうか。
そして、計画が煮詰まってきた頃に竹中正久を会長にしたが、竹中はたった1年で死亡している。
この間に、竹中の持っているものを把握して殺害することにより、山口組の竹中派ともどもやろうとしていたのではないだろうか。
この後、文子の一番仲のいい渡辺芳則が会長に就任している。
竹中を山口組の中に生きさせないようにしたのだ。
竹中は、株と関係があり、中国と関連株にダメージを与えることにより、竹中に大きな打撃を与えていた。
何故、竹中が中国かというと、中国建国の父といわれる毛沢東と同一人物だったからではないだろうか。
裁定とは、つまり、跡目を決める決定権のある人がやることであり、跡目の候補者が死んだりしていたのは、文子がいい、といわなかったためだろう。
しかし、渡辺芳則なら文子がいいと言ったのだ。
このように考えると、首謀者はA倍晋三である可能性がある。
渡辺芳則と田岡文子(A倍晋三)はグルだったのだ。
山口組は、イギリスの暴力団ではないだろうか。
田岡一雄→エリザベス女王と同一人物
田岡文子→サッチャー首相
田岡一雄の死亡後、中国に香港を返還すると決定した直後、どうしていいかわからず組長が決められなかったのだ。しかし、暫定的に文子を会長とすることで、イギリスの暴力団として保っていた。
女を会長にするわけにはいかない、ということだろうが、実質的には文子が会長職に就いていたが、それを公にせず、密室権力にすることで得なこともあった。
会長がいないために派閥抗争が起こり、文子の嫌いな構成員たちを左遷することにも一役買っていた(理由づけが必要ない、体面を保つ必要がない)。
渡辺芳則と司忍は同一人物だが、この人物は、イギリスのチャールズ皇太子と同一人物である。
会長候補の名前が出た山本健一は、フィリップ殿下と同一人物である。しかし、会長に名前が出て来た時に死亡したらしいが、そのこともあまり知られていないらしい。
山本健一も田岡文子も女である、といわれているようだが、田岡文子は女かどうかがあやしい。
しかし、女であるとみなされ、実質的に権力を持つことにより、それを周囲にいる男のせいにすることが出来るため、利益を得ている。
とはいっても、初代や二代目会長は、やはり渡辺芳則であるようだ。