宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 ⑬    下山事件

●事件名
 下山事件

●事件の概要
 1949年7月、国鉄総裁下山定則が、国鉄綾瀬駅付近で轢死体となって発見された。当時、日本はGHQの支配化におかれていた。
 国鉄では職員のリストラ問題で大騒ぎになり、共産党系の労働組合も組織され、反対運動が起こっていた。

●事件の背景・動機
 下山は、事件当日朝、車で国鉄本社の前を通りすぎ、三越まで行くよう運転手に指示。しかし、三越は開店前で時間を調整するため、銀行などに寄り金を引き出したりした。開店後、再びデパートの前で車を止め「5分ぐらいで戻る」と言い残し、中に入りそのまま行方不明となった。
 翌日、下山は国鉄綾瀬駅付近の線路上で轢死体となって発見されたが、衣服には鉄道のものではない、ヌカ油のようなものがこびりついており、下山がどこかに拉致されていたのではないかと思われた。共犯者は貨物列車が動いていたことから国鉄内にいたのではないだろうか。
 事件発覚の前日、都内の旅館で下山が宿泊していたことがわかり、その時の証言で下山は思いつめた様子であったという。
 警察は捜査はしたものの、公式に発表されないまま、事件の噂や憶測だけが流れ「戦後3大ミステリー」と呼ばれた。

●犯人は誰か

 戦後日本には、中国からの復員者がいた。その中には731部隊の関係者も多かった。中国関係者は戦後の東京裁判で無起訴になっていた。
 有名な石井四郎もその中の一人だ(裁判前に死亡したとして、偽装の葬儀まで行っていた)。その他に石原莞爾という宗教家(S学会)もいた。彼の著書を愛読する過激派も多く、現在のオウム真理教日本赤軍派の父ともいえる存在だ。
 彼の息子は世界にも多く、日本の政財界や皇族(当時の皇太子)も息子たちの一人である。
 当時の日本はGHQの支配下にあり、諜報活動が盛んだった。日本国内の共産勢力を押さえることを目的とした機関もあった。戦中の中国での行為者を無罪にしたのは、その後のアメリカの対共産国(主に中国)戦略に使用するためであった。

 当時、隣の中国では、中国共産党と台湾の国民党軍が争い、中国共産党が勝利した。つまり、日本の隣では、共産勢力が勝利していた。
 そこで、石原たちは困った。
 日本の隣で中国が勝利するということは、中国で731部隊として中国人の実験を行っていた者たちが捕まり処刑されてしまう。その時、すでにアメリカとの密約があったかどうかはわからないが、中国や共産党を崩壊させる戦略として、自分たちは生き延びそうだと思っていたし、アメリカもそのつもりだった。

 そして、労働組合の運動が激化すると危機を持ち、下山を殺害する計画を立て、中国の流れをおさえるため、皇太子(石原やアメリカ)の意向で、国鉄職員のリストラが計画された。

 下山氏を犠牲にリストラを行うという取り決めだったが、下山は気づかなかった。
 下山氏は、三越に行き連れ去られた。三越は、当時キャノン機関と呼ばれるアメリカの諜報部だった。
 運転手は、それから数時間経った後に、車のラジオで下山総裁が行方不明になったというニュースを聞いたということだったが、5分で戻ると言った人がなかなか帰ってこないのを不審がらない者はまずいない。犯人の仲間であった可能性もある。
 下山氏が死亡する直前、宿泊していた旅館で思い悩んでいる様子だったというのは、その事実(自分が犠牲されリストラが行われることか、もうすぐ自分が死亡してしまうこと)を知ってどうしようと思っていたからではないだろうか。三越で連れ去られた後、一度解放されたが「必ず殺す」と脅しの言葉でも言われたのではないだろうか。
 その後、宿泊先の旅館に顔見知りの者が来たが、今までの態度とは豹変していて「どうしてくれる」などと言われた。この人物が暴力団だった(渡辺=Y新聞のWの息子?)。この男に「表を見てみろ大変なことになっている」などと言われ、旅館を出、その後旅館近くの土手の辺りで拉致された。
 渡辺が近くの米店に住んでいて(ヌカ油の正体)下山氏を殴り気絶させた後、線路近くの小屋に監禁されていた。夜になり、線路に遺体をくくりつけ、貨物列車か何かに轢かせたのだろう。
 当時の暴力団は、右翼だった。


宝財探偵所の迷宮事件-2につづく