宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 天皇陛下殺人事件 91 天皇を殺したはウソ

 
 明仁天皇は、塩見孝也でU山田HとC5のM本E朗で、ジャーナリストのT原S一朗であると思われるが、この人物が、継の宮と呼ばれていた本物の明仁かどうかが問題でもある。
 明仁天皇の幼少期の写真を見ると、昭和34年の成婚時に発行された記念切手に映る当時の明仁皇太子は、M本E朗にそっくりである。
 その前の昭和25年頃の写真も同じ人物である。
 結論からいうと、少なくとも、昭和25年からの明仁皇太子は、今の明仁天皇と同一人物であると思われる。
 暴力団などが吹聴していた、天皇を殺した、というのはウソであると思われる。
 天皇を殺した、といっている人物らが殺したのは、天皇ではなく、天皇にとって邪魔になる危険性のある人物らで、天皇の立場とは全く違う性質を持つ人々であると思われる。
 明仁皇太子がM皇太子妃と結婚したのは、1959年のことであるが、これは、塩見孝也と樺美智子で森順子との結婚でもある。
 森順子は、塩見とは別に田宮高麿とも結婚していて、都内に自宅がある。
 
 1959年後半頃から登場した赤軍派が当時の世の中を席捲していたのは、このためであろう。
 
 赤軍派が1970年頃から活動が衰退した理由

 塩見は1970年3月に、ハイジャックの計画を立てたとして、裁判で有罪判決が出て、1980年~1989年12月までに収監されていたとある(本当に投獄されていたかどうかはあやしい)。
 一方で樺美智子は、松山ホステス殺人事件で逃走犯となった福田和子と同一人物で、この事件が起きたのは、1982年頃である。
 このことから、1970年3月に起きたよど号事件の後から赤軍派活動は下火となっていたことだろう。

 Hの宮とAの宮は死んでいるらしい

 Hの宮をしているのは、森順子の夫で田宮高麿である。この人物は、シンガーソングライターMと同一人物で、シンガーソングライターMのイメージは、実直な好青年風であった。Hの宮も同じイメージを持つため、特にシンガーソングライターMとHの宮の顔を変装で変える必要がなかったのだろう。
 Hの宮がいるのに、80歳に近い年齢の者がHの宮をしているのは変で、Hの宮は子供の頃(1968年頃)殺害された可能性が高い。本物のHの宮の父親は、H山K夫で、H山とHの宮少年は、護国寺のラジオ体操の会場で殺され、護国寺の空き地に埋められた。
 一方、Aの宮は、1970年頃連れ去られ、大阪の長柄神社で宮司の息子として育てられたが、1976年のロッキード疑惑の頃、殺害された。
 この殺人に関わったのが、HTの宮でA前首相と息子で、その頃から自分は天皇である、とHTの宮が主張していたと思われる。
 Aの宮の実の父親は、橋本龍吾だが、和歌山県の家で一家を皆殺しされ、自分だけ逃亡した。
 1968年頃、橋本龍吾は、田宮高麿と奥平純三に、「自分は天皇のお父さんである」と漏らしたため、田宮と奥平に目をつけられ、和歌山の一家を殺害された。父親がAの宮を天皇と言っていたので(未来の天皇という意味か、明仁の息子なので天皇候補を天皇と言った)、そのAの宮を殺したので、殺した人が自分は天皇だ、と名乗ったのだろう。
 Aの宮を樺美智子が大阪へ連れ出した時、塩見で明仁はハイジャック計画の罪により逮捕されていた。
 
 Aの宮と共に連れ出した生後1年の清子は、同じく大阪の長柄神社で一旦留められたが、A前首相でHTの宮が引き取った。
 
 塩見で明仁の後継者となるHの宮とAの宮は殺害されたが、女の子は王位継承権が当時なかったため、A前首相のもとで育ち、菊池直子として手配された。
 
 塩見の後継者Hの宮とAの宮が死んだ理由 

 塩見の後継者だけ殺害されたのは、田宮と塩見の間で確執があったか、塩見が自分の子でない者を後継者にするのがいやだったため、田宮らに息子(実の息子ではない)を殺させたのかも知れない。
 今Aの宮をしている人物は、演歌歌手Mで魚本公博であるが、塩見と赤木の関係は、U山田HとC5のコーラスと元ボーカルの関係で、その中でもM本E朗は、特に魚本公博に仕えていた。U山田HとC5の人気を支えていたのは、演歌歌手Mで魚本だったので、メンバーは魚本を大切に扱っていた。
 しかし、1986年頃、魚本が独立を考え、C5から去った。その後、C5のボーカルとなった人物も赤城N樹という。

 演歌歌手Mと塩見は昔からの仲間であるため、本物Aの宮の死亡後、いつの頃かは不明だが、演歌歌手MがAの宮となり、親子といっている。