昭和天皇の兄弟の秩父宮
昭和天皇の兄弟には、秩父宮、高松宮、三笠宮がいる。
このうち、秩父宮は、1953年1月4日に50歳で死去している。
秩父宮は、スポーツ振興に貢献したことで、都内や各地にゆかりのラグビー場などがある。
肺結核を患い、御殿場で静養し、その後鵠沼に引越し1月4日に死亡した。
遺書を残しているが、
・遺体を解剖すること
・火葬にすること
・葬式は如何なる宗教にもよらない形式とすること
とされている。
昭和天皇の弟ということで、昭和天皇と比較されることもあり、2.26事件の時には、犯人たちと共謀したとまで言われたという。
1995年8月に、妻の勢津子妃が死去している。
この中で、気になるのは遺書である。
遺体を解剖すること、如何なる宗教にもよらないこと、とあるのが、仮谷氏の死亡状況と一致する点がある。通常、皇族は土葬であるのに、火葬を希望していることも特異といえば特異である。
もし、死亡した人物が、秩父宮ではなく、別人であるとすれば、例えばその人物を秩父宮が殺害していたとしても、解剖するの意味は不明だ。しかし、葬式をしないこと、火葬にすること、など、恨みと証拠隠滅のためと考えられないことはない。
もし、秩父宮が仮谷氏であるとすれば、1953年に身代わりを殺害して、
皇居を出たことになる。
例えば、秩父宮が1953年に殺害した人物が、高橋克也の関係者であるとすると、仮谷拉致事件は、その時の復讐ということにもなる。
ちなみに2.26事件の首謀者は、高橋克也であろうと思われる(北一輝)。
2.26の犯人が、処刑される時に「秩父宮万歳」と叫んで死んだ、という話もあり、このせいで秩父宮はだいぶ迷惑をかけられて、北の息子を殺害した、ということも考えられる(秩父宮に2.26の罪をなすりつけるためにわざと万歳と叫んだなども考えられる)。
また、妻の勢津子妃は、42年後の1995年8月に死亡しており、子がいなかったために、秩父宮家は断絶している。
仮谷氏と勢津子妃の死亡時期がだいたい同じ時期である。
仮谷氏は、秩父宮か妻の勢津子妃だったことも考えられる。
松本知子と高橋克也は、母子関係にあると思われ、松本知子と高橋克也の父親は昭和天皇で村井秀夫(蒋介石)と同一人物者かも知れない。
つまり、仮谷拉致事件の首謀者の二人が、昭和天皇と比較されていた秩父宮を疎ましがっていた関係があったのかも知れない。
秩父宮で仮谷氏とは、昭和の時代にとって、重要な人物であったことがうかがえる。仮谷氏の死亡後、これまでの戦後日本が築いて来たものが崩壊したからだ。
秩父宮とは、昭和天皇の実務や中身にあたる人物で、この人物は昭和天皇の影のような存在だった。[すだれ]のような存在といえばわかりやすいだろうか。もっといえば、戦後の天皇独裁政治ではなく、天皇の権力を制御し、天皇と民間や行政が一体化しないような秩序を作るような役割があった人物であると考えられる。秩父宮の役割も含めて、昭和天皇の時代と呼んでいたのだろう。
秩父宮は、旧秩父セメントと関係があるか
秩父宮と同じ名前の会社に秩父セメントがある。
秩父セメントは、仮谷氏が死亡したと思われる1994年に、O野田セメントと合併し、太平洋セメントになっている。
社長の名前は、M井貫一というが、このような経歴の持ち主である。
・郵便局員だったことがある(自宅と郵便局がつながっていた)
・秩父鉄道の創設者(本社は熊谷市、埼玉県北部を中心に不動産業、鉄道業)
・埼玉銀行の会長(現りそな銀行)
・日本煉瓦製造会社(東京駅や日銀のビルの煉瓦を製造)
・経団連の創設者
また、親戚のM井T三郎氏は、
日本ビルブローカーの創始者でもある。
仮谷氏か仮谷氏の妹(M井華畔という書家?)は、目黒公証役場のあるビルのDビルの所有者で、妹がオウムに入信した際に多額の布施をし、Dビルの権利をよこすよう要求したところから、兄の元へ逃げたという。
現在、Dビルの所有者は、O野田セメントの会長(上佑史裕→H山由紀夫)と同一人物になっている。
また、M井貫一は、後年顔が変わっていて、A生太郎になっている。
秩父セメントとO野田セメントが合併する際に、O野田セメントが秩父セメントを乗っ取ったと考えられる。そして、経営者を殺害してしまった可能性もある。それが仮谷氏だった。
また、JALの会長だったY田誠二郎は、M井家に一時養子としていたことがある。
また、Dイエーの会長のN内功は、親戚だが、本物は殺害されている。
仮谷氏の親戚やつながりがオウムによって殺害されていると思われる。