阪神淡路大震災の前には何があったのか
仮谷拉致事件が起こる前に、阪神淡路大震災が起きた。
この頃、オウムは兵庫県や関西地方で何をしていたのだろう。
阪神淡路大震災が起きた直後から、警視庁では赤軍派とオウムを捜査していた。
オウムの前身は赤軍派だから、同じグループを追っていたと思われる。
しかし、オウムという名前ではなく、赤軍派を捜査していたという感じが強いため、人は同じだが、オウムではなく赤軍派を調べていたのだろう。
このことから、阪神淡路大震災は赤軍派と関係があるものと考えられる。
田宮高麿や森順子は、関西弁を話している。
赤軍派の拠点が関西にあったことがみうけられる。
赤軍派が関西で起こした事件の被害者を例えば、淡路島の富島原発に埋めていた、などが考えられる(震災記念碑がある)。しかし、どこかで殺害した人物を富島原発所内に埋めていた、ということも考えられる。
1989年に女子高生コンクリート殺人事件が起きた。この事件の被害者は、昭和という名前のつく会社で働いていたか、犯人が昭和と名のつくコンクリート工場で働いていた。
被害者は、皇族だったNの宮で、よど号事件の時にどこかへ連れられて、親とも離れて住んでいたなどして不幸な生い立ちだった。
1989年の正月過ぎに犯人は被害者を殺害した。
このことを知った父親である明仁皇太子は、皇居から「はかま姿」で犯人の自宅の綾瀬に向かい、抗議に行ったという。
「何をしているんだ」と言ってみたものの、犯人が被害者をひどい姿にしているのを見て怖くなり、明仁皇太子は犯人の自宅を出て皇居に戻った。
しかし、皇居に戻ることを見透かしていた犯人は、先回りして皇居へ向かい、戻って来た明仁皇太子を殺害した。
その後何日か後に、本当は明仁皇太子が死亡したことを公表せずに、昭和天皇の崩御が宮内庁から伝えられた。
この時死亡した明仁皇太子の遺体はどうしたのだろう。
明仁皇太子の遺体は、焼却されて兵庫県淡路島の富島原発所に運ばれたのではないだろうか。
この事件が起きたのが1989年1月、阪神淡路大震災が起きたのが1995年1月。しかも、阪神淡路大震災は、昭和天皇の崩御と関係がある感もある。
犯人は、明仁皇太子の遺体を富島原発に埋め、さらに、明仁皇太子と関係のある友人や知人、関係の深い会社などの要人を殺害していたと考えられる。それが関西で起きていた赤軍派オウムによる大量殺人だったと考えられる。
関西の赤軍派は、武闘派路線と呼ばれているらしい。京大、大阪大学などの学生たちとパレスチナの極左過激派のグループであるという。
パレスチナはイスラエルと混同しているので、イスラエル人という可能性があり、イスラエル人といえば上祐(大阪市長のH下市長)であろう。オウムの武闘派といえば上祐である。この他、重信房子(石井久子)や田宮高麿(菊地直子)、岡本武(麻原彰晃)、塩見孝也(高橋克也)などがいる。
彼らは関西で、明仁皇太子の遺体を埋め、関係のある人たちを殺害してどこかへ遺棄していた。北朝鮮では殺害した人の遺体を原子炉に放り込んでいる、などということを聞くが、そういうこともしていたのかも知れない。
あるいは、大阪には、舞洲、夢洲、咲洲という人工島があり、この人工島を埋め立てる時にコンクリと一緒に遺体を埋め立てたのかも知れない。
仮谷拉致事件で仮谷氏が殺害され福島原発に埋められたのが2001年だとして、巨大地震は2011年に起きている。10年後だ。
1989年に明仁皇太子の遺体を富島に埋めて、その後巨大地震が起きたのは1995年。6年後だ。
明仁皇太子の遺体を埋めた富島原発がポケベル遠隔操作により巨大地震を起こした、というのは考えられないことではない。
そして、この地震テロの成功が、再び天皇を殺そうという計画につながった可能性がある。
仮谷拉致事件でのオウムの供述は、明仁皇太子の殺害と遺体遺棄のことを言っているのかも知れない。