宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 38-79    八王子大和田スーパー殺人事件のつづき

 被害者の息子

 八王子スーパー事件の被害者の息子は、麻原彰晃だ。
 しかし、麻原彰晃は、自分の親が殺害されたことを知られたくないために(バカにされる、カリスマがなくなるなど)関係のない女性の名前(あの女という風に抽象的な言い方をしているが、あの女という言葉を警察は自分たちの都合のいいように理解するのだが、何故かそれが麻原の思惑と一致することが多い)を出し、その女性の父親が殺害されたことにしている。
 そうすると、「あの女」と警察が思い込んだ女性のことを麻原彰晃だと思うトリックがあり、何の関係もない女性がまんまと麻原彰晃、ということにされてしまう。
 また、被害者と関係のある茨城県の国の施設でも、そのすりかえに協力し、あたかも関係のない女性を被害者の子であることに見せかけるような工作をしている。
 この効果によって、
“反佑捕まりにくくなる
∋?錣凌祐峇愀犬わかりにくくなる
H鏗下圓違えば動機も見えずに犯人もわからなくなる
など、犯人にとって都合のといいことばかりになる。

 また、事件を首謀したと思われる松本知子も、自分の息子の父親が死んだことがわかると、オウムやアレフひかりの輪の中で、麻原彰晃がないがしろになってしまい、影の指導力が発揮できないことに危機を覚え、なるべく、麻原の父親が殺害されたことを隠すための工作をしている。
 オウム幹部がよってたかってストーカーをすればすぐにどうにかなってしまいそうな女性や普通の市民を被害者の子ということにして時間を稼ぎ、事件が未解決の間に次々と別の事件を起こし、オウムを守ろうとしているのだ。
 オウムを守る、という言葉はおかしいと思うかも知れないが、結局、どんな名前の団体にしろ、信者(仲間)は同じメンバーが主要メンバーなので同じことだ。例え、それがひかりの輪だとしてもだ。
 ひかりの輪には、オウム幹部に親を殺された人たちが入信していると言われているが、それは、結局のところ、オウムの主要幹部のためになることであり、自分たちの一族を守ることでもある。
 被害者が入信していることによって、むしろ、クリーンなイメージを作り出すことが出来、被害者信者は単に利用されているだけだろう。
 被害者信者は被害者信者で親を殺された団体に入っていればいくらかマシということで仕方なく入信している者もいるだろう。

 松本知子は何故、この事件を首謀したのだろう。
 松本知子は、麻原彰晃(菊池直子と平田信の二人一役)と上裕史浩の母親である。
 上裕は天皇と同一人物で、麻原彰晃の父親は常陸宮(被害者)である。
 上裕(上裕)の味方をしたい松本知子は、麻原彰晃の父親を殺害すれば、麻原彰晃というケチのついた者を支配できるし、上裕が殺害することにより、往年の上裕のライバルだった常陸宮を殺害でき、その上、上裕が宗教団体を設立すれば、麻原を従えた団体が出来るし、天皇として無法状態で活動できる、と思ったのだ(菊池は女性が大嫌いすぎるので、母親を殺害されている可能性もある)。

 ひかりの輪の信者は、性行為を行なった者
 
 ひかりの輪は、全国で8割の人たちが入っている宗教だと上裕が豪語している。
 この8割というのは何にあたるかというと、性行為をした男女のことを言っている。
 反対に、政府が行なっている少子化対策と連動させて、一人暮らしや独り者を監視することにより、性行為をよく行なう者と行なわない者で国家が差をつけ扱っている。
 このため、性行為が一層若い年齢から行なわれるようになった。
 性行為を行なう者と行なわない者の区別をどうしているのか詳しくはわからないが、見る人がみればわかるとか、国策でわかるようにしているのだろう。
 性行為自体が宗教の入信に関係していることになり、これはキリスト教の教義と同じである。
 キリスト教の教義の一つに、話し合いで解決できないものは性行為を行なうと解決するようになる、というものがあり、キリスト教では性行為を推奨している。男女間の軋轢やイスラム教の蔓延によって生じる矛盾を性行為で解決させようとする意図に大きく貢献している(女の方が格段に損をする)。

 キリスト教との関係 

 上裕は、イエス・キリストと同一人物である。そのため、年齢は推定でも2000歳以上である。
 イエスの母親が松本知子でマリアということになる(マリアの銅像は誰がマリアかわからないように顔が違っている)。 
 性行為の推奨は、キリスト教への入信活動と同じ意味があり、国家政策でそれを行なう、ということは、国家がキリスト教を推奨していると同じことである。
 よく国会議員でカトリックの熱心な信者である、というようなことがいわれる人物がいるが、それはこのように裏政策を行なっている、ということである。