群馬は武蔵国の防衛拠点だった
群馬県は、武蔵国(徳川幕府の東国)の最北端の防衛拠点だったようだ。
このため、やくざ者が重宝された可能性がある。
北海道(蝦夷地)、東北地方などから、賊が入ってこないように、各所に役所が置かれていたようだ。
何故、北側を警戒するのに、北朝鮮は大丈夫なのか不明だ。
群馬県は馬賊が多かった?
群馬を代表する有名人・国定忠治は、博徒で、他人から盗んだ物を赤城山周辺の村人に配り、飢餓をしのがせた、という。これは、国定忠治が、お尋ね者として手配され、山に逃れていた時であったという。
また、賭博の儲けで公共事業を請け負うなどして幕府から目をつけられるようになり、小伝馬町の牢屋敷に入れられた。
国定忠治は、博徒で盗賊であったようだ。
国定忠治は、赤城山周辺の村人に配った物、とは、いったいどこから盗んできた物かは不明だ。
群馬県には、昔、馬が多く、馬が多いということで群馬という名前がついたという。
盗賊と馬を合わせると、馬賊になる。
馬賊とは、中国の満州で、盗賊に対する自衛団組織の中の遊撃隊としてが始まりだったが、盗賊とやりあううちに、自らも物を盗むようになった。
馬に乗る盗賊団ということで馬賊という名前になったのだろう。
第二次大戦の頃、ロシアや関東軍は、馬賊を利用して満州での影響力を高めようとした。
ソ連は、外蒙古を支配していたので満州に影響力を高めるために、日本は内蒙古と満州の共産主義化を食い止めるために、日ソ双方の思惑から、馬賊は、機動部隊の様相をていした。
馬賊は、その後、日本軍や日本人も襲う事件を発生されたりしていて、日本人が抱く馬賊のイメージは、この頃のものだということだ。
満州の崩壊後は、馬賊組織も衰退したが、その後は中国の軍の一部に組み込まれた。中国では、政権に雇われた馬賊が、正規軍・政府軍だったようだ。
国定忠治の話と馬が多い群馬県には昔、馬賊が多かったのではないだろうか。
馬賊は、中国の正規軍であるというので、実は群馬県の人たちの中には、中国の政府軍が混じっていて、そして、日本の政権を裏から支配しているのではないだろうか。
そうだとすれば、保守王国のバックには、中国がいたことになる。
自民党は、意外にも、中国の軍と仲が良かったのだ。
日本の政権や国民は、中国軍のお堀的存在だったことになる。
馬といえばイギリス
馬といえば、イギリスが有名だ。
イギリスの女王の夫の名前は「馬を愛する人」という意味があるらしい。
群馬は、国定忠治や赤城山を神扱いしているようだ。
国定忠治は、イギリスのプロテスタントの神のマリアと同一人物だ。
群馬県は、イギリス人が多いのだろうか。
赤城山は、霊山であるともいうので、イギリスが嫌いな人々を殺して埋め、それを霊山としていたのかも知れない。
かかあ殿下といわれるのは、イギリス人が多いからかも知れない(実際には女装した男が女王をしている)。
赤城山は、実はウラン鉱山で、ウラン鉱山は原子力発電の多い日本で、かばわれるはずだ、ということで群馬に居住している可能性もある。
群馬の名産のうどんは、小麦粉を原料にしており、イギリスは小麦粉の産地だ。
群馬県の夏祭りには、キリスト教の布教活動が行なわれていて、それは、風物詩級だという。
首相経験者がイギリス人
福田赳夫→仮谷清志→イギリス女王の夫と同一人物(何度も警視総監に就任している)
中曽根康弘→菊池直子→イギリス女王と同一人物
小渕恵三→菊池直子
福田康夫→菊池直子
群馬の有名人・国定忠治の家は、村人が飢饉の時に食糧などを配り、飢えをしのがせた、という話が有名だ。
このことで、国定忠治は村人を救ってくれた偉人のような感覚で崇めているのだろうが、現在では、それが「メシを食わせてくれる人」「仕事をくれる人」ということに変化しているフシもある。
国定忠治と群馬県の関係は、そういうことでつながっていると同時に、昔、武蔵国といわれた地域の最北端が群馬だったのだが、江戸と群馬の境目にある武蔵地域が何らかのカギになっていて、そこで、選挙の投票集計企業がMサシという名前である可能性がある。
群馬県は、ダルマ(高崎のダルマ弁当、ダルマ市)も有名だが、自民党の選挙の当選時にはダルマに目を入れる習慣があり、自民党政治に群馬県がいろいろな側面で関わっているようだが、それはつまり、群馬県がイギリス傀儡政治の窓口だからではないだろうか。
イギリスは、ヨーロッパの島国だ。
向こう側には、ノルウェー、スウェーデン、フィンランドがあり、この北欧の脅威から目をそらさせるために、アジアや他の地域の国などに攻撃をして北欧と対立するのを避けている。
そのターゲットになっているのが日本やアジアなのだろう。