宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件    天皇陛下殺人事件 79 オウム捜査の実態 冤罪で大量死

 菊地直子の顔見知りは全員死んでいる
 
 菊地直子は、昭和天皇の娘だったので、指名手配された後、通報されては困るので、学生時代の同級生、同窓生のほとんどは、暴力団(オウム→山口組)につきまとわれ、世間からひどい扱いをされ、死亡している。
 菊地直子が高校時代入っていた部活なども、下級生は大丈夫だが(通報される心配がない)同級生や先輩などが、1人か2人を除きほとんど全員死亡している。菊地直子は、マラソンが得意で青春時代にマラソンに明け暮れていたというが、冤罪をかけられたと゜のぐらいの人たちがマラソンと関わっていただろう。それはほとんどマラソン選手であったという事実を無視した捜査が行われていたことを証明するかのように、マラソンと無縁の人ばかりが暴力団や警察から追われる羽目になった。
 菊地直子は、自分の素性がバレることに危機を感じて指名手配されてから、14年間の間に、親しかった友人やライバルのような顔見知りを、麻原彰晃に頼み、口封じのために殺させている。
 その数は、百人以上にのぼるともいわれている。その甲斐あってか、菊地直子の通報者は、お門違いの人ばかりで、お門違いで通報された「似ても似つかない、妬まれやすい人」の死亡者も遭わせると、推定でも数百人はくだらないだろうと思われる。
 オウム信者を生んだ文京区では、地元の警察署が皇族に葉っぱをかけられ、冤罪で死亡したオウム信者と同世代の者が多い。文京区の場合、菊地直子の父親(A前首相)が警察に乗り込んで権力を行使した冤罪捜査が度々行われ、菊地直子の捜査が出来ないように、他のオウム信者の捜査と称して、無関係な人の死亡が多発している(菊地直子の罪を他へなすりつけ、まともな捜査がされた試しがない)。
 これが、日本における天皇の権力でもある(天皇のために他の者が犠牲になることを強制している)。
 そして、もともと冤罪捜査を依頼したのは、菊地直子の実の父親の生きていた昭和天皇だといわれている。
 平田信も、Hの宮であるといわれているが、同じようなことが起きている。ただ身長が高いだけで、平田信だと冤罪をかけられ死亡した人も多数にのぼる。さらに、菊地直子の冤罪をかけられた女性に菊地とともに相乗りし、下着泥棒などをはたらき、自分の支配のパワー源としている。
 しかし、高橋克也は、皇族ではないので、菊地や平田よりも冤罪で死亡した者は格段に少ない、といわれる。 
 かくて、指名手配とは、皇族関係者など警察が逮捕できない者を市民に通報させ、警察の逮捕圧力を市民にとばす効果を期待しているものである。
 だから、モンタージュや写真を使った指名手配は、たいていが捕まらないか、捕まってもすぐに釈放されるケースが多い(本当は死んではいないのに死んでいると発表されることもある)。
 通報者に懸賞金が支払われるのは、警察関係者かよっぽどの金持ちか、タレントなど警察が困らない人たちに限られている。
 有名な指名手配の裏にはたいてい皇族の影があることも忘れてはならない。そして、必ず無関係な人が、犠牲になっていることが多い。
 それはつまり、皇族関係者の暗躍を狙ってのことである。同時に、懸賞金をダシにして、皇族のパワーを増大(皇族の犠牲を作る)する目的がある。
 菊地直子の夫(H山Y夫首相)の父はI知事で、I知事は菊地の義理父である。

 1980~1年頃、明仁死亡か

 大阪のだんじり祭りで、天皇らしき人をA前首相や息子のお笑いタレントが殺害したともいわれている。
 明仁の死亡時期については、諸説あり、時期が未だにはっきりしていない。
 しかし、A前首相が昭和天皇と仲が悪く昭和天皇がA前首相のことを皇后に向かいあれこれ言っていた時、すでにA前首相は皇居に住んでいたという。
 その時期から推定して、1980~1年頃、明仁は殺害され、A前首相は皇居に出入りしていた。
 1980年といえば、タリバンアメリカにテロを起こし、その存在がアメリカに知られた時期と一致している。
 しかし,A前首相自体が明仁だった可能性も捨てきれない。その場合、昭和天皇の娘を息子の明仁が引き取り、皇居の生活と一般人としての二重生活をしていたということになる。
 皇族の生活はひまなので、一般人と同じように、会社で働くこともよくあるようだ。
 A前首相は漢字や日本語があやういところが指摘されているが、天皇明仁が短歌が苦手であることと一致している。
 しかも、韓国や外国で政治家をしていたのも、バックに天皇家があったことで、割合容易にそれができたということも考えられる。移動は普通の交通機関で自由に行き来できる。