宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 天皇陛下殺人事件 84 新天皇は平田信にする計画の日本警察 中国の大謀略?

 
 オウム信者平田の父

 平田信覚せい剤容疑で逮捕されたO尾Mは、HTの宮の息子である。
 HTの宮は、アメリカのR元長官で、オサマビン・ラディン師の父である。
 HTの宮の本名か別名は、I原Kといい、、フィリピンのバターン死の行進を行っていたA級戦犯本間雅晴である。小説家のA田J郎の父でもある。I知事兄弟の養父でもある。
 イラク戦争の暁には、HTの宮が天皇に即位すると噂が流れたが、HTの宮は、平田信をHの宮として即位させるつもりである。

 今のHの宮の身長は165cm前後、平田信は183cmである。これは全く身長が違う。Hの宮は、皇太子妃より身長が若干低い。しかし、Hの宮の身長と違うじゃないか、と後々言われないために、そろそろ、Hの宮の身長を変更しようとしているか、身長にトリックを使うことを計画しているかも知れない。しかし、183cmより身長の高い女性は日本人にはいないので、外国人などを皇太子妃にしようとするかも知れない。
 
  
 HTの宮を最初にHの宮だから逮捕できない、冤罪で誤魔化そう、と言い出したのは、警視庁本富士警察署である。しかし、実際には、平田はHの宮ではなく、HTの宮の息子である。しかし皇族としては登録されていない。
 平田信オウム信者本富士警察署の地元ッ子だったのだ。
 
 オウム、本間雅晴。HTの宮の息子が天皇に即位したら、日本は大混乱し、テロと「バターン死の行進」のような大量殺人をバックにした、ただ思っただけで人が死ぬ、のような世の中になることが予想される。
 O尾Gは、お笑いタレントT2の兄・A貴Hで、平田が弟のA朋Hである。
 ラムズフェルドでHTの宮で本間雅晴は、お笑い芸人のA八郎でもあったようだ。
 他に、A前首相も同一人物である。

 I知事もHTの宮の息子

 HTの宮の息子には、I知事の秘書もいて、彼はオサマビン・ラディン師であると思われる。彼の思想は、イスラム原理主義である。
 I知事の秘書は、オウムの林郁夫でもある。
 林郁夫でコピーライターのI井S里の顔が、I知事の秘書で、オサマビン・ラディン師である。
 I知事の息子に、千葉県知事がいるが、オサマビン・ラディン師の父に親を殺害されているため、オサマビン・ラディン師の影武者となっている。
 I知事の秘書は、自分と顔の似た兄弟や息子たちをオサマビン.ラディン師の影武者にしている。いざという時、捕まっても、影武者は影武者で本人ではない。結局釈放されるか、うやむやになることを狙っているのだ。
 I知事は、I井S里に影で操られている。
 I原Y次郎は、I知事の弟だが、二人の兄弟の親が、HTの宮でR元長官に殺害されていて、その息子がI井S里である。
 I井S里は、オサマビン・ラディン師で、I知事はオサマビン・ラディン師に操られている。
 二人の行動や性格はほぼ同じでほとんど見分けはつかないが、顔や身長や体格が違う。


 HTの宮は、アメリカのR元長官なので、アメリカ政府ともグルである。
 本間雅晴やオウムが日本で展開され、その後、アメリカの一存で戦争になったり、戦犯になったりして、結局割を食うのは、日本国民である。
 天皇アメリカと密約するに決まっているし、天皇を助ける代わりに日本国民をやらせろ、というのは、歴史の中でもあることだ。
 
 
 HTの宮は、中国の趙爾巽の息子

 HTの宮の父は、中国の辛亥革命の頃に活躍した、趙爾巽という政治家か張作霖の息子であると思われる。趙は、西太后が実質的に支配する中国の東三省の治安を維持するため、張作霖馬賊を活用し、農業を発展させた。
 西太后に働きかけ、袁世凱と共に戦った仲間である。
 もし、そうであれば、HTの宮は、天皇の息子というより、中国の張作霖か趙爾巽の息子で、日本政府が見た、皇太子にそっくりな人物のいた張作霖蒋介石の家の息子(例えば、趙爾巽と蒋介石の妻の間の子育てていたのは張作霖?)であり、明仁の弟・正仁とはすりかえられた可能性が高い。
 T元外相や、I知事も西太后(日本でいえば明治から大正時代に活躍した)娘や息子で、HTの宮とT元外相で皇后M子を中心とする明仁殺害を計画したのは、中国であることがわかる。
 張作霖は、昭和3年に列車内で爆殺された、とわれているが、それはウソであると主張する人物もいる。それは、河本大作の息子(I原S太郎とI田D作兄弟)である。
 死んだのは河本大作で、工作したのが張作霖で、その際、明仁の弟も列車内にいて、爆殺されたのかも知れない(1990年終わり~2000年頃に死亡した張学良が明仁である可能性もある)。この張作霖爆殺事件(本当は河本大作爆殺事件)は、日本は外国から批判を浴びることとなり、昭和天皇の命により、当時の首相が辞任するに至った。