宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 29-420    仮谷さん拉致事件のつづき

 定時制高校にも部活があった

 菊池直子がしていたというマラソンだが、浦和女子高校の定時制にも部活がある。定時制の授業が終わるのは、21時だが、21時から22時30分頃まで部活動の時間があったのだろう。
 陸上部は今ではないが、1980年代にはあったのかも知れない。
 この学校の部活動は、生徒が主体となり、部員が3人以上集まって、顧問を教師に依頼すれば、部活動を作ることが可能である。 
 逆にいえば、部員が3人に満たなければ、その部活動は消滅する。

 菊池直子という女を三人の幹部がしていた

 菊池直子という女を昭和25年に殺害したのは、S倉千代子だが、その後、1985年頃まで菊池直子をしていたのは村岡達子である。村岡達子が自分の姉か母と一緒に住んでいることを妬んだのが大内早苗で、大内は1985年頃、村岡達子を家から追い出し、大内が菊池直子となった。
 菊池直子をしていた女は、昭和25年から指名手配されてるまで、三人のオウム幹部がしていたことになる。
 しかし、よくよく考えてみると、一人の人間を三人の女が演じているのは、何故だろうという疑問が浮かび、もしかすると、菊池直子という名前をゆくゆくは指名手配しようと思って、麻原が前々から、菊池直子の名前で謀略を企んでいたからなのではないかと考えると、一人の人間に対し、三人の女が菊池直子という名前を名乗っていた謎が解けて来る。

 菊池直子をしていた者がもう一人いた?

 菊池直子の指名手配の写真をよく見てみると、ある人物に似ていることがわかる。この人物は、冤罪といわれたY崎えり子という人物だが、顔が菊池直子によく似ている。
 よく冤罪といって裁判が長引くことがあるが、ある人物は、このような冤罪事件によく登場する。
 ある人物とは、A生太郎のことで、オウムでは井上嘉浩である。
 A生は男だが、オウム幹部は、男が女装したりすることはよくあることである。平田信も、女に整形して、Bという学校で狩野という生徒として通学していた。
 A生の顔は、菊池直子の顔の特徴によく似ており、A生で井上が菊池直子に整形して写真に写ったとしても不思議ではない。
 Y崎えり子とA生太郎が同一人物であれば、冤罪だと言っていたこともわかってくる。
 A生が冤罪である、と主張した事件に
・東電OL殺人事件
足利事件
松川事件
などがある。

 A生太郎の父母は、村岡達子とI原慎太郎(林郁夫)である。

 文京区のBという学校にいたK倉紀子という女は、手配写真の菊池直子の顔によく似ている。
 この女は、埼玉県に住んでいて、A生太郎が父親であったといわれている。
 父親とK倉紀子が同一人物だった可能性もある。
 菊池直子をオウム内で名乗っていたのは、S倉千代子だが、手配写真の顔は男で井上嘉浩だったということになる。さらに、菊池直子をしていたのき、時期を変えて三人の女性幹部がしていたことになる。
 これは、謀略以外の何者でもない。
 A生は、大のイスラム思想家として知られている。女性が一人で飲食店に入るのもダメだし、女性が一人で道を歩いている時にもいいがかりをつけるような人物である。
 菊池直子の指名手配の目的は、女性をいいなりにしようとするA生やイスラムの謀略であると考えられる。

 平田信高橋克也、菊池直子、指名手配の目的

 あと二人の指名手配犯だが、平田信江東区内でガソリンスタンドで働いていた男とうり二つで、W・ブッシュと同一人物である。高橋克也は、上佑史裕でH山Y紀夫と同一人物である。
 W・ブッシュはアメリカ人で、菊池直子でA生太郎も、ペンタゴンのR長官であると思われる。指名手配犯のうち、二人がアメリカ人ということになる。もう一人の高橋克也だが、高橋はユダヤ人であり、アメリカとユダヤの関係は、アメリカがユダヤ人の味方についたら、次々といいことが舞い込んで来たために、いつしかアメリカの軍のバックがイスラエルとなり、イスラエルアメリカの軍を崇拝するようになり、二つの国の関係は持ちつ持たれつというものである。
 このことから、平田と菊池はアメリカで、高橋もアメリカとユダヤということになり、オウムの指名手配の目的とは、アメリカによる日本支配であると考えられる。バックにはイスラエルがいる。
 菊池直子の手配により、あらぬ女性に疑いをかけ逮捕・拘束させたり暴力団につきまとわせたり、盗聴行為を受けさせたりして女の自由を奪い、高橋と平田の手配により男の自由を奪い、謀略の首謀者のアメリカに有無をいわせず日本人を従わせるのが指名手配の目的であると考えられる。
 無実の人を疑うということは、関係者を疑うこととは意味が違う。無力で何も知らない人に権力が行使されることであり、それは何もしていないのに社会的制裁を受けることと同じ意味を持つ。