文部科学省の辣腕官僚
宮沢一家殺人の被害者は、「ツヨシ、しっかりしなさい」の脚本家と音楽を担当していた人物であると考えられるが、文部省と関係のあった人物である説が浮上してきた。
噂によれば、文部科学省の辣腕(らつわん)と呼ばれていた官僚であるという。
犯人の一人が、宮沢家のパソコンを使って大学や官庁のホームページを見ていたというが、大学といえば文部科学省の管轄である。
文部科学省は、地質などの研究も行なっており、学校に関係することや学術・研究に関係する省庁でもある。
犯人が見ていた大学のホームページは、やはり被害者か事件に関係のあるページだったとみるのが普通で、被害者が文部科学省の役人である可能性もある。
文部科学省は、当時、何をしようとしていたのだろうか。
そのやろうとしていたことが犯人らの都合が悪くて、そのために殺害されたということも考えられる。
犯人は同時に劇団四季のホームページも見ているが、劇団四季のはったりのようなきらびやかな雰囲気と、グループSのきらびやかなそれと似ている。
その後の捜査で、三浦半島の砂が犯人の遺留物から出てきた、ということだが、犯人がSのメンバーで海兵隊員だとすれば、米軍と関係があるというだ。この砂を持ち帰っているので、地質を調べる研究でもしようとしていたのではないだろうか。
文部科学省で、地質の研究をしている部署の中に犯人がいる可能性もある(すぐに浮かんでくるのは上裕)。
文部科学省の辣腕と呼ばれていた人物に秋M(男)という名前の人物がいたらしい。この人物は、御茶ノ水の広告調査会社で係長か部長をしていた高垣という人物に似ている。
高垣は、1996年頃、会社の近くに黒い服を着た男がウロウロしている、などと言い、つきまとわれていた風でもあったという。
被害者は、この人物だろうか。
また、2年後ぐらい後に、オウムのいる会社Sで働いていたある人物が、オウムから「文部省」と目されており、高垣という人物とS社で働いていた人物は同一人物で公安職員で文部省の官僚だったのかも知れない。
事件の直後(2011年1月6日に開館したばかりの第二庁舎ビル)、公安の入っているビルに、急に入ってきた黒服の集団がいる、と言われており、高垣の言っていたことと一致する。
黒服の暴力団と言えば稲川会を連想させる。
この人物は、事件直前の2000年10月までは生きていることがわかっている。
高垣という人物が、辣腕の文部省、辣腕の公安警察官(警視総監)であるとして、歴代の警視総監を調べてみると、
事件が起きた当時
野田健
1996年12月3日就任
前田健治
1994年9月9日就任
井上幸彦
がいる。
1996年12月3日に就任した警視総監だとすると、就任直後にはすでに黒服の男に高垣がつきまとわれていたことになり、就任したからといって事態が変わるわけではなかったことになり、この人物ではない感じがする。
また、1994年に就任した井上幸彦だとすると、当時と1996年では、オウム事件が明るみになっていないかいるかの違いがあり、雲泥の差がある感じがする。
また、事件当時警視総監をしていた人物だとすると、就任中に殺害されたことになり、それに気づかないでいた、ということにもなるが、野田健は、石原都知事の取り巻きの中にいた警視総監で、犯人グループの一味が自分の味方を殺す、というのはおかしい気がする。
しかし、現職で警視総監職に就いていた者ではない可能性もあり、この三人の中の誰かが辣腕と呼ばれていた人物である可能性もある。
前田健治という人物か
前田健治という人物は、1996年12月に警視総監に就任している。高垣という人物が、「黒い服を着た男がウロウロしている」と言っていた頃だ。
その直後に、黒い服の男をやってみないか?と言われて警視総監に就任していた可能性もある。
そして、それが誰だかがわかり、2000年12月に家族と共に殺害されたとすれば、何故、宮沢家にいたのかが疑問がわいてくる。
黒い服を着た男にその後もつきまとわれていて、ある日、黒い服を着た男に「つきまといをやめてやるので、一日だけ宮沢みきおとその家族になってくれないか」などと言われて、一日だけ宮沢家に住んでいたその日に事件に遭った。
そして、例えば、前田氏は公安だったので、警備会社を経営していた可能性もある。
新しく建設された第二庁舎の管理をまかされている警備会社の社長だったが、2000年12月に殺害されてしまったので、殺害後、犯人が各フロアのカギを前田氏から盗み出し、年が明けた2001年1月に、黒い服の男たちが第二庁舎に入り込んできた。
そこで、第二庁舎で働く公安職員や他の官庁の官僚を立て続けに殺害し、公安のフロアにあるという留置場に入れられ、壁に塗り込められたというような推測も出てくる。