宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 ➁-63    村下孝蔵の死の謎のつづき

 

 村下孝蔵は仮谷頼事件の仮谷清志として1990年10月に死んでいた

 

 村下孝蔵は、仮谷拉致事件の仮谷清志として1990年10月に死んでいた可能性がある。

 仮谷拉致事件の逃走犯の一人が、執拗に村下孝蔵のフリをして評判を落とすことをしていたようだ。

 村下孝蔵の写真を昔と1990年代の物を比べると、顔の一部が違っていて別人になっていたことがわかる。それと時期を同じくして、村下孝蔵の評価が下がり「好青年」から「変な中年男」に変わっていったのだ。

 さらに、1990年代前半~半ばには、「村下孝蔵は青年実業家」と噂されるが、これまでのイメージとは違い落ち着きのないうわっついた男だと評されるようになった。

 村下孝蔵が仮谷清志だとすれば、青年実業家で間違ってはいないが、金持ちなのにバカみたいな人だと思われるのはおかしい。

 仮谷拉致事件が起きたのは1995年ということだが、その頃にはすでに死んでいて、被害者が不在のまま、自作自演の拉致殺害劇をオウム信者が演じていたと考えられる。

 

 村下孝蔵の歌やジャケットのモデルをしていた女性がいて、この女性は村下孝蔵が別名者として同居していた娘か妹であると思われるが、この人物も殺害に関与しているようだ(モデルにされるのが嫌だったため)。妹の兄が高橋克也で、兄妹の父親が平田信だったと思われる。このように、家族に裏切られるようになったのは、村下孝蔵が当時の皇太子だったため、政権争いが起きていた可能性がある。

 逃走犯が付いていたのは、Aの宮の方だったのだ。そして、それが高橋克也である。

 村下孝蔵は、他に、安倍晋三池田大作小和田恒等と同一人物だったようである。

 小和田恒の娘が当時のお妃候補だったが、お妃候補の女性がAの宮と男女関係になってしまい、男性側のしきたりにより親が殺害されることになり、それが村下孝蔵だったようである。

 何故、家族がAの宮についていたかだが、家族のほとんどがオウム真理教の信者となっていたようだが、教祖の麻原彰晃が、高橋克也でAの宮についていたからだ。しかも、お妃候補M子と麻原は同一人物であり、麻原の命令によりAの宮に付くようになったのではないかと考えられる。  

 皇太子のお妃候補をМ子に推薦したのは、池田大作であると言われているが、池田大作自体が浩の宮と同一人物であり、皇太子が天皇に即位するためにМ子の力が必要であったと考えられるが、そのМ子を支配していたのがAの宮だったのではないだろうか。

 浩の宮の死後も、浩の宮が1990年頃に殺害されていたことは知られることがなく、平成時代も終わりを迎えたが、新天皇に即位したのは村下孝蔵の浩の宮ではなく、Aの宮と平成の天皇の合作の令和の天皇である。