宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 ①-243    9.11同時テロ事件のつづき 日中友好平和条約は台湾条約の見せかけ

 日中友好平和条約

 日中友好平和条約を締結した当時のT首相は、石原莞爾の顔に似ている。
 石原莞爾は第二次大戦中、中国で満鉄などに関わる傍ら、731部隊の実験にも携わっていたと思われる。
 しかし、アメリカが東京裁判で裁く際に、中国の肩を持っても仕方がないので、中国には自分で裁くよういいつつ、無起訴になっている。
 石原莞爾は宗教家であった。肩書き的にはS学会のI氏にそっくりだが、
顔を見るとT首相に似ている。
 二人は親子であるとすると、T元首相もI氏と同様、宗教の本を著すほど、宗教のことには精通していたことになる。
 石原莞爾の本によると、アメリカを制するには中国大陸を支配することが重要な課題である、という内容であり、石原莞爾が当時中国の職務に従事していたことと一致する。
 日中友好平和条約とは、関係者の間では台湾条約といわれていた。
 つまり、中国のための条約ではなく、台湾が中国に勝つための条約であったということである。
 台湾と中国は、もともと中国あった台湾島を、中国共産党と敵対する蒋介石などが台湾の領土をせしめて、台湾国を創設したのが始まりらしい。
 しかし、台湾が国として認められるかは微妙で、日本は中国の肩を持っていた。つまり、台湾は独立国家ではないと表明していた。
 それをくつがえしたかったのがT元首相で、彼のもともとの狙いは、台湾国のために日中友好平和条約を結ぶことだった、と台湾の関係者が思っていた。 
 日中友好平和条約の平和の使者には、当時30歳ぐらいの男性が選ばれている。彼は、1940年12月に生まれた人物で、開戦日と誕生日がほぼ一致しているし、石井四郎を戦犯として裁く際に、この人物の父親が石井四郎である、と言って呼び出されたのが、この人物の育ての父親である。しかし、彼は、この人物の実の父親ではなく、実の父親が石井四郎だったが、米軍が千葉の自宅に行った時には、葬儀の最中であったという。石井の正体が未だにわからない、とされているのは、1940年12月に生まれた男の正体がわからくなっていたからである。
 第二次大戦の戦後の取り決めは、中国に有利になるものはないといえる。
 戦勝国ではあるが、それを自分の手で話し合いなりしなくてはならなかったものを、中国はそれを面倒がり、全てアメリカに頼ってしまっていた。
 そこで、中国の取り分のようなものはほとんどない。しかし、日本に対しては戦勝国と敗戦国の関係があり、日本側はいろいろと中国に気を使うことになっている(しかし、アメリカとの関係を重視しなくてはならない日本がどのように中国と折り合えばいいのかは今でも疑問であるらしい)。
 T元首相は、中国との関係を正常化するように見せかけて、実は台湾人(インド人)の張作霖の息子で張学良で石井四郎の息子を、平和条約の平和の使者に選んだ。中国との関係は修復されるどころか、台湾が有利に働くように、その人選をしたとしか思えない。
 石井四郎と張学良の顔はよく似ていて、同一人物であると思われる。
 中国人が中国人の人体実験をするわけはなく、張学良で石井四郎は、台湾人(インド人)であると思われる。
 しかし、それをわからなくするために、石井四郎の息子の家にいた、石井四郎の父親に勘違いされた人物の子を、平和の使者であると吹聴し、いかにも、その子のやり方が悪いので中国問題がうまくいかないかのように見せかけた。このことには、日本にいる台湾関係者(新聞社や政治家)がわざとそのように吹聴していた。
 この条約に干渉しているのが、インドである。これは、台湾を建国した者たちがインド人の軍部の者たちであった証拠ともいえる。
 そのため、台湾人でインド人は、平和の使者の血縁上つながりのない子供のことを追い掛け回し、中国と日本の関係がうまくいかないよう、小さい時から様々な妨害をしていた。
 その一環の活動として、オウム真理教があった。台湾政治家から金をもらい、中国と関係のありそうな子供をいたぶったり、台湾に対して将来的に敵対してくるであろう子供に小さい時か目をつけ、何人もの大人が、学校や周囲に対して圧力をかけていた。その中には、地元の警察も含まれる。政治家から金をもらって、陥れろ、の類の命令はよくされていた。