宝財探偵所の迷宮事件

宝財探偵所が未解決事件に挑みます。

宝財探偵所の迷宮事件 天皇陛下殺人事件 117


 Nの宮は北とイギリスの娘だった?

 1970年頃に、北とイギリスの娘だという子供がI原S太郎により誘拐され、熊本の飯田エリ子の元に行き、その後、麻原彰晃と松本知子が引き取り、都内に住んでいた。
 しかし、1978年頃に江東区内で神隠しに遭い、行方不明となった。
 松本知子(E頭Y美子)の後ろを歩いていた女の子は、路上に止まっていた車に拉致され、用意していた大内早苗(菊池直子)が、女の子と同じ服装をして入れ替わり、松本知子と同居するようになった。
 この時、拉致された女の子は、車の中で殺害され、マンホールの中に遺棄されたという。
 松本知子は、皇后(当時皇太子妃)と同一人物であった。
 北朝鮮金日成は、今の天皇と同一人物で、松本知子の夫である。イギリスというのは、松本知子は当時、イギリスの王室の誰かであった可能性があり、その子供のことを北とイギリスの娘と呼んでいたのだろうと考えられる。
 もし、この時拉致された女の子は、1977年頃殺害され、マンホールに遺棄された。
 大内早苗(菊池直子→森順子と同一人物?)は、天皇の娘と呼ばれていたのは、天皇と正田美智子の替え玉のE頭Y美子の娘(北とイギリスの娘)の替え玉だからである。
 拉致して殺害したのは田宮高麿で、この人物は、麻原彰晃の親玉である。
 松本知子は、麻原彰晃とも夫婦だったが、北とイギリスの子供は天皇の子供で、麻原彰晃の子供ではない。
 
 皇后の息子・娘は全員死亡

 皇后は、1960年にHの宮を、1965年にAの宮を、1969年にNの宮をそれぞれ産んでいるが、全員死亡している。
 Hの宮は1968年頃、Aの宮は1976年頃に殺害され、Nの宮は2007年に病死しているか殺害されている。
 この子供たちは、本物の方の正田美智子の子供たちで、子供が9歳頃に殺害されている(Nの宮は2007年)。
 正田美智子には、本物とニセモノがいて、本物の方は自分に天皇の妻はつとまらないと辞退したが、すでに皇太子と離れられなくなっている関係があったために、E頭Y美子さんが替え玉になるということで、皇后となった。そして、子供を三人もうけたが、Hの宮を1969年頃に、Aの宮を1974年頃に殺害された。
 Hの宮を殺害された時にはすでに皇居の中も騒然としていたと思われ、1970年3月30日にはよど号事件が起きた。
 よど号事件とは、E頭Y美子と天皇の娘のことであると思われるが、天皇(当時皇太子)が北朝鮮金日成で、E頭Y美子がイギリス人(エリザベス女王と敵対していたメアリー)だったために、北朝鮮とイギリスの娘と呼ばれた。
 しかし、この娘も9歳になった頃に、田宮高麿にに殺害され、替え玉を大内早苗がしていた。
 よど号事件は、北朝鮮とイギリスの娘を北朝鮮に見せに行く、ということで計画されたが、母親のE頭Y美子は正田美智子の替え玉だったが、正田美智子の息子は殺害されていて、替え玉のE頭との間の子供を、天皇が喜んでいたので、正田美智子は、Aの宮とNの宮(平野一路、真美)を連れて、平野松江という名前でよど号に乗り、北朝鮮か韓国まで行き、その後大阪へ行った。
 大阪の住之江区の神社へ行った平野松江は、父親が宮司をしていたので、ここへ子供を預けたが、1974年頃、Aの宮は、だんじり祭りで殺害されたと思われる。Aの宮は天皇と正田美智子の息子だったのかも知れない。だんじり祭り天皇が関係があるといわれているからである。
 この時、天皇は、息子が心配になり、新橋から大阪へ向かったが、大阪に着いた頃には、息子はすでに殺害されていた。
 Aの宮を殺害していたのは、A生太郎で、M本人志と同一人物である。しかし、A生太郎は、Aの宮を自分の息子だったと主張し、子供を殺された父親のフリをして、正田美智子の相談に乗るフリをしていた。
 その後、正田美智子は、グリコという会社の社長夫人となっていたが、誘拐脅迫事件が起こり、またしても居所を変えた。