宝財探偵所の迷宮事件 124 天皇陛下殺人事件
Nの宮は1978年頃に死亡していた 皇后はエリザベス女王と同一人物?
Nの宮は、イギリスから拉致されて日本に連れられた。
拉致したのは、菊池直子で、その後熊本にいた。ある時、麻原の家に預けた後、都内に麻原夫婦が引っ越してきて、1978年にNの宮は路上で田宮高麿に拉致され、殺害されマンホール内に遺棄された。
Nの宮がイギリスにいるというのは、Nの宮が、明仁天皇か常陸の宮と、皇后の娘で、皇后がイギリス人だったからではないだろうか。
正田美智子時代の皇后は、身長があまり高くなく、小柄な感じがする。一方、イギリスのエリザベス女王も、小柄である。二人は同一人物なのだろうか。
皇后は、イギリス王室と親戚関係があるといわれているが、女王と同一人物だったのかも知れない。
菊池直子は、このイギリスのエリザベス女王の娘を拉致したと考えられる。そして、Nの宮が1978年に殺害された後、菊池直子がNの宮の替え玉となり、現在に至る。
Nの宮は、都内に引っ越してきてから、1978年に死亡するまで、K澤春江という名前で、1978年以後は、菊池直子(森順子と同一人物)がその名前を名乗っている。
Nの宮が生まれた頃は、金日成が北朝鮮の最高権力者だった。
Nの宮は、北とイギリスの娘と呼ばれていたが、北朝鮮の金日成をしていたのは、常陸の宮である。しかし、明仁天皇が1994年に殺害されているので、明仁天皇が金日成だったが、常陸の宮に殺害され、常陸の宮が金日成になりすましていたとすると、Nの宮の父母は、明仁天皇とエリザベス女王だったことになる。
あるいは、Nの宮は、常陸の宮とエリザベス女王の娘だったのだろうか。
Nの宮は、1978年に殺害されたので、明仁天皇の息子・娘は全員赤軍派により殺害されていたことになる。
これを、明仁天皇と常陸の宮の確執と呼んでいたのではないだろうか。
Hの宮の父は若槻礼次郎だった
Hの宮の実の父親は、若槻礼次郎であったことが最近になりわかった。若槻礼次郎は、ある事件で1967年に赤軍派によって殺害され、息子のHの宮は翌年か同じ年の黒い霧疑惑の頃に殺害されたと考えられる。
父親の若槻礼次郎は、建設会社の社長だったが、その会社の従業員の赤軍派に殺害された。そして、この事件をきっかけにして、皇族の明仁天皇の息子や娘が殺害された。
赤軍派の革命思想とは、天皇家の一族を殺害し、自分たちがなりすまし、天皇家を乗っ取ろうとする思想のことである。